朽ちた壁に
これは、オレが終わる何歩か手前の光景だ。
昼と夕方の間の日差し。ネットで有名なオカルト話に煽られて、近所の廃アパートに入り込む友人の背中。なあ、やっぱりやめとけって――ボロボロのコンクリートがはね返す自分の声。
中途半端な霊感持ちのオレは、恐怖体験も武勇伝もない代わり、心霊スポットが本物か偽物かを見分けるくらいなら出来た。目の前の廃墟は、近所で有名なだけのつまらない偽物だったのに。
ぞっとした。
見慣れた偽物を、初めて怖いと思った。
昨日まで偽物だったのに、急に本物になるなんてありえるのか?
だから言ったんだ。やめとけ、って。
結局、オレは友人の後を追った。
心配だったのと、多分、恐怖に対する防衛本能的なやつだと思う。ガチの霊感持ちじゃないから、レーダーが誤作動起こしたのかも……なんて考えてしまった。廃墟の中もまだ明るくて、想像したほど怖くなくて、油断してしまった。
一階を歩き回っても、怪奇現象どころか不良やホームレスの気配すら無かったことが、オレと友人の油断に拍車をかけていたんだろうな。二階の探索に移ったオレ達は、あるドアの前で驚いたような、喜んだような声を上げた。
嘘だろ? マジだよ!
『おれは このさきの へやにいるよ』
サビたドアの表面に、子供っぽい字。ネットの話と同じ……いや、似た文章が書いてある。
話に出てきたのは『わたしは』から始まる女の子っぽい感じだったはずだ。
スマホで確認すると、記憶のとおり『わたしは』だった。『おれは』じゃない。
同じ話を読んだ奴がうろ覚えで書いたイタズラ――そう結論付けたオレ達は、イタズラに付き合ってみようかと、中にあるはずの次の落書きを探してドアを開ける。
もう何も怖くなかった。
『おれは ひだりに いるよ』
玄関から入ってすぐ、廊下の突き当りの壁にも文章が再現されていた。間取りの違いは仕方ないと割り切りながら左に進む。
『あたまは ひだり からだは みぎ』
今度は間取りと文章が一致した。文章の書かれた壁の左右に部屋がある。
元の話では書いた奴の友人が逃げていたけど、オレの友人は逃げなかった。話みたいに、片方が発狂して逃げる展開にはなっていない。
話をトレースするだけじゃ物足りないと、友人は左の部屋に行くと言う。オレは最後の文章が気になって、右の部屋行きを選んだ。
右のドアノブに手をかける直前のこと。
閉じていく左のドアと友人の背中の向こう、左の部屋の床に灰色のような水色のような長い髪が散らばっているのが見えた。
頭は左。なら、イタズラの仕掛けでマネキンの頭やウィッグが置かれていてもおかしくない。
友人は気付いていないのか、仕掛けには無反応だった。気付いたから、あえてスルーしているのかもしれないけど。
そのうち聴こえてくるはずの帰りを促す声を想像しながら、オレは右の部屋のドアを開けた。
『おれの からだは このしたにいるよ』
あった。最後の壁の文章だ。
最後まで一人称を間違えたままで、少し笑えた。
左の部屋に仕掛けがあったように、ここにも仕掛けがあるんだろう。壁目当てで前ばかり向いていた視線を、文章に従うように下に向けて――固まった。笑いかけの口元がひきつった。
首のないマネキンが黒い服着せられて転がっていたら、しかも、つぎはぎ模様の悪趣味なペイントなんてされていたら、いくらイタズラでも気味が悪いに決まっている。
気味が悪い……気味が、悪い?
体が固まったまま動かない。マネキンから目が離せない。友人を呼ぼうとした口が動かない。
気味が悪いんじゃない。オレは怖いんだ。
ごまかして忘れていた恐怖感が、マネキンのせいで一気にふき出したんだと自覚した瞬間――
「左の部屋から俺の頭が来てるよ」
知らない声が聴こえた。
友人の絶叫と気持ち悪い音が聴こえた。
マネキンが人間みたいに起き上がって、オレの後ろ側を指差していた。
「後ろ、見てみる?」
逃げないと、死ぬ。
もう、霊感のアリもナシも関係ない領域だった。
本能的に死を感じたオレの体は、悪あがきで目玉と頭をグルグル回す。
思い出せ! 元の話はどうやって助かった? ああ、窓だ! 窓から飛び降りて逃げたんだ! この部屋にも窓がある。逃げられる。きっと友人は無事だ。話と同じ終わりになるんだ。二人とも逃げて助かって終わるんだ。じゃあ、叫び声は何だったんだ? 脅かそうとしたんだよな? そうじゃなかったら、何かミスって驚いただけで――
窓まで全力で走ったはずだった。
肩をトンと叩かれたと思ったら、視点が変わってた。目の位置が変わったみたいに、体が縮んだみたいに、窓がずっとずっと上の方に見えるんだ。
おかしいんだ。助けてとか、友人の名前とか、助けてとか、家族の名前とか、叫びたいことがたくさんあったのに。口の形してない口から出てくるのは、これしかないんだよ。
ヤメトケッテ、ヤメトケッテ。