双眸の遠眼鏡

※元ネタ:洒落にならない怖い話【双眼鏡】
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双眸の遠眼鏡

 人の呪いが、夜、実験に繰り出した。

 初めて踏み荒らす市街地での、最初の実験。
 実験材料にんげんを集めるべく適当に周囲を見回すが、どうやら、この区画は夜の人通りが少ないらしい。
 都合がいいと捉えるか、手間がかかると捉えるか――「どうでもいいか」に落ち着いた時、そう遠くない場所から視線らしき気配を感じた。

 呪いが見える人間が、気付いたのだろうか。
 気配を辿れば、背の高い建物の天辺に目が留まる。人工の光を反射して、双つの光が一瞬きらりと輝いた。近づいていけば、それは人間の男が手にした道具だと分かる。
 遠くを見るための道具、双眼鏡という物だ。

 手を振って「見えるー?」と声を出してみる。
 男からの反応はない。見えない人間が、偶々こちらの方角に双眼鏡を向けただけらしい。
 最初の実験材料をこの双眼鏡男にしてもよかったが、悠々と夜の世界を見下ろす彼の行動に興味が湧くと同時に、悪趣味な嫌がらせの案が呪いの内に浮かんだ。

 実験の成果を見せつけられ、尚且つ、双眼鏡男を怯えさせる事も出来る。
 散々怯えさせた後は、実験材料の仲間入りだ。
 しばらくは、夜の傍観者でいさせてやる。

 双眼鏡越しの視界の外へと、呪いは嗤いながら歩き出した。

 呪いが街を用済みと見做す日まで、双眼鏡男は夜の静寂を眺め続けていた。
 魂の代謝から見るに、癒しを感じるための行為だと推測されたが、呪いには行動と癒しが繋がる意味が解らないままだった。

 訊けば答えるだろうか。今夜、彼を夜の高みの傍観者から引きずり下ろすその時に。

 最期の日は、人工の光と月の光が隅々まで街を照らしている。双眼鏡には、さぞかし明るく鮮やかに映る事だろう。寝静まった街の空気も、遠くの大きな給水タンクも、ぽつぽつと佇む自販機も、一番うまくいった実験の成果も。

 見晴らしのいい坂道にて、実験成果と共にレンズが向けられる瞬間を待つ。
 ここは、彼が必ず見下ろす場所だから。
 ほら、双眼鏡が今日もこちらに輝いた。

 呪いは指をさす。「あれがゴール」と。
 呪いは実験成果の背中を押して無邪気に笑う。「一緒に走ってやるよ」と。夜間のランニングを日課としていた、熱心なスポーツ青年の成れの果て――動かせる限界まで干乾びさせた、がりがりに痩せ細った改造人間に。

 果たして、改造人間は走り出した。制御する理性を失った肉体は、最初から全力疾走だ。偶然笑みの形に引き攣り固まった顔で、指差されたゴールを、ゴールの目印たる双眼鏡男を目指してひた走る。

 双眼鏡のレンズが異形を捉える。
 傍観者、双眼鏡男が気付く。驚く。慌てる。怯える。天辺から姿が消える。
 彼は、悠々たる傍観者の玉座から転げ落ちたのだ。

 目印が消えてもなお、改造人間は止まらない。呪いが「こっち」と誘えば、天辺へ続く階段を上り行く。双眼鏡男は天辺にて恐怖に竦んでいるか。それとも、怯える肉体を叱咤して逃げだしたか。
 結果は、後者。
 ゴールを見失い出鱈目に走り続ける改造人間を、またもや呪いが誘った。
「ちょっと位置が変わっただけさ」。呪いの眼で覚えた魂が、階下で恐怖に震えている。

 階段を上る音の次は、下る音が響き渡った。
 誘われるままに双眼鏡男の部屋へと辿り着いた改造人間は、改造前の記憶がそうさせるのか、インターホンを鳴らし、部屋のドアをノックする。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
 ピンポンと来客を告げる軽快な音色は、擬音で表せない不快な高音となり、双眼鏡男の魂をより震わせる。言葉を失った改造人間の「ウッ、ンーッ!」という呻き声と、拳を叩きつけられるドアの悲鳴も重なって、けたたましい異様が場を包み込んでいた。

 いい加減に、頃合いか。
 あまりに騒がしくし過ぎては、標的以外の人間が次々に動き出す。呪いの周囲の者達に、沸騰気味の小言を並べられたり、涼しくも胡乱な表情で苦言を呈される可能性が高い。聞き流せばいいが、面倒に対する労力を考えれば、最初から聞かないに越したことはないだろう。
 呪いは改造人間の横からするりと腕を伸ばし、固く施錠されたドアをこじ開けた。

 部屋のリビングに残るのは、まだ温もりを残した日常の跡と、虚しい抵抗の跡。
 カーテンの隙間から差し込む月明りが照らすのは、呪いと、呪いの腹に命が消えた静寂。そして、持ち主を失った双眼鏡だけだ。

 呪いは双眼鏡を拾い上げ、かつての持ち主の行動をなぞるように、建物の天辺からレンズ越しの風景を見下ろしてみる。

「案外面白いね。道具一つ噛ませるだけで変わる世界……ってやつ?」

 ありふれた市街地を双眼鏡で眺めるだけで、魂が癒しの揺らめきを見せたのは何故か。持ち主が答えられなかった呪いの興味と疑問に、物言わぬ道具は答えない。
 結局、答えと理解は呪いの思考に委ねられたのだが。

「解ったところで、意味無いか」

 呪いの興味からも手からも放り出され、双眼鏡は役目を終えた。
 透明な鏡の双眸は、もう二度と輝かない。

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